尾曲集落
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私達が家を借りているのは町内、上別府地区の尾曲集落というところです。戸数は約60軒ほどですが、空家も多く実際には50世帯ほどの集落です。
この辺りは、特攻機地で有名な知覧を守るために、終戦間際の突貫工事で張りぼて飛行場が作られました。終戦のわずか3日前に集落は空襲によって大部分焼失したそうです。今有る集落はそのため、大部分が終戦後間もなく再建されたものです。
この尾曲集落には尾曲さんと下尾さんという苗字の人がほとんどで、それ以外の苗字は我が家を含め2、3しかありません。頴娃町では集落名と住んでいる人の苗字が同じと言うのが当たり前で、苗字を聞けばどこの集落の人間かがすぐ分かります。反面、人の名前を覚えるには、苗字で覚えるのではなく、名前の方で覚えるしか方法がありません。
集落内には簡易郵便局が一軒、酒屋兼雑貨屋さんが一軒ある他はお店は全くありません。集落内にはバス停があって、我が家の前は一応バス通りなのですが、バスは一日上下1本づつしか走っておらず、バスが家の前を走っているのを見かけることはまれです。
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集落の私設消防団
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集落のいわゆる青年団が私設消防団です。青年と言っても私でさえ若い方と言う中年の集まりなのです。集落の中では20代の男性がまれなので、30代、40代は立派な青年となっています。
移住早々消防団へ入団することとなり、11番目の団員として同世代の集落の人達と親しくなる機会を与えてもらいました。集落内の同世代の大部分がサラリーマンとして働いており、農業をするため移住してきた人間は好奇の対象です^^;
消防団のメインの活動は1ヶ月に一度、集落で決まっている農休日、第三日曜日に朝から集落内で農作業者がいないか見回ります。農休日と言うことで、集落の取り決めとしてこの日は、農作業を午前9時以降にしてはいけないことになっています。農地見回りのほかに集落内の公共物の修理などの奉仕活動を行った後、集落の公民館で酒盛りとなります。(農地見回りで徴収した罰金は飲み代になります)
その他、冬場には週末の夜に「かまど検査」なる夜回りや「火の用心」があり、その後は飲み会となっています。同世代の親睦と結束を深めるための組織となっており、私達の年代は消防団、子供達には子供会、奥さん達には婦人会と世代毎に親睦のための組織があるわけです。集落名の入った消防のハッピをもらって、ご満悦の私でした^^;
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オイセコドン
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古くから残る行事の一つで、年2回集落の班毎にお伊勢様(神様)の神棚を祭った家に集まり酒宴を催し、その後班内の次ぎの家に神棚を移し、更に宴会をするというものです。 これは伊勢参りが非常に遠かったため、昔は集落から代表者を送り参詣させていたな残りで、伊勢神宮から神様の分身を持ちかえり、それを祭った神棚を各班毎に班内の家に安置しています。班内で神棚の移動の順番が決まっており、当日は昼過ぎに神棚の置いてある家で班のメンバーが集まり、飲み食いしながら料理を作り、夕方に再度その家に集まって酒宴を開きます。腹がふくれ、酒が回った頃神棚を持って順番の次ぎの家に神棚を移動させます。床の間に神棚を安置して皆でお参りした後に、移動した先の家で更に簡単な酒宴を開くと言ったものです。 頴娃町の中でもこの風習が残っているのは町の西よりの地域が主のようです。酒宴のメインはもちろんいも焼酎と鶏飯や鶏刺しとなるようですが、集落や班毎に味付けや料理の内容が少しづつ異なっている様です。
ある説によると、薩摩の島津藩では領民の暮らしは大変厳しいものでした。そのため、お伊勢参りをさせると、領民が他の藩の領民の生活を知ってしまい、その結果領民が離散することを恐れたため、お伊勢参りをしないですむように、その分身を持ってきたというものです。
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だれやめは家に帰ってから
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これは集落内のゴミ集積場の横に立っている看板の標語です。最初意味がわからず、立ちしょんベンはしないで家のトイレでしなさいとの意味かと思いました。
実は、「だれやめ」は「疲れを取る」と言う意味で、疲れをとる晩酌の意味だったそうです。晩酌は家に帰ってからしなさい、飲酒運転はしてはいけないとの交通標語だと言うことが判明しました。
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